福祉活動
日記

画期的な取り組み(車内で一度に医療介護相談)

救急車を呼ぶほどのことでもない、かかりつけ医の診察を受けたいけど、何らかの理由で受けられないときに、車内での医療介護相談というスタイルがあったら、気持ちが楽になります。高齢者には医者嫌いの方がいて、家族はどこにどのように相談したら良いかわからないということもあります。自宅近くに車で来てくれて、医療介護相談ができれば、こんな有り難いことはありません。新型コロナウイルスの影響で、外出を控えたい、人混みを避けたい、プライバシーを守れる環境があったら、是非相談したいという方はたくさんいると思います。

老衰って?

日付:
2020年4月1日(Wed)

老衰について、私は母を通して始めて知りました。あるホームページを読んで印象的だった言葉があります。

「天寿を全うすることを医療が邪魔しないこと」

亡くなる前に食べられなくなることにより脱水状態となり、徐々に眠くなる時間が増えて、ADL(日常生活動作)が低下していきます。母は要介護5でした。亡くなる前には食べられなくなっていきました。脱水状態にして自然に看ていくのが最期を楽にする方法なのだそうです。身体の状態にあったちょうどよい傾眠、穏やかな呼吸で最期を迎えることができるのだそうです。

最期の状態を実際に見ていた介護士さんの話から、母は老衰で亡くなったと言えると思っています。苦しむことなく、旅立てたのだと思っています。家族だからそう思いたいのかもしれませんが、老衰ってこういうことなのかと学ぶことができました。

死は病気ではなくて自然なこと。自然死を見守ることはなかなか勇気が要ります。点滴=元気になる、元通りになるっていう考えを強く持っていたものですから。

「天寿を全うすることを医療が邪魔しないこと」家族が静かにお迎えを見守ることも、ひとつのあり方なのだということを母から教わりました。そして、これだけ長寿国となった今、老衰に対する学びと理解は必要だと思います。

心不全の大発作から5年4ヶ月。あのときの凄まじい苦しみ様からは想像できない、穏やかな最期と言えます。骨折もなく、褥瘡もなく、むくみもなくきれいなお顔でした。

看護師さんから言われたこと、「お母様の身体はとってもきれいでしたよ」

ホームの皆さまが良くして下さったこと、感謝申し上げます。

なかむらひろこ

看取りについて

日付:
2020年3月31日(Tue)

母を見送ってから2週間が経ちました。

最初の大発作が起きてから5年4ヶ月。母の頑張りを通して見ることができたこと全てが、今となっては私の人生の宝物となっています。病状が急変し、グループホームから救急搬送されたため、私たち夫婦は病院で待っていました。残念ながら最期を看取ることは叶いませんでした。

誰が介護を担い、誰がその人の最期を決め、誰が最期を看取るか。介護とは、日頃のお世話だけでなく、看取りまで担うことなのだと思います。

人ひとりの晩年を見守り、寄り添い、いつ終わるのか分からないお世話をしながら、どんな最期を迎えてもらいたいか。それらをひっくるめて考える必要があることを、今更ながら考えさせられます。

私は実子ではなく嫁。血縁ではないけれども家族。ひとつ屋根の下に暮らしてきた家族です。幸いにして母は穏やかで、私を困らせることはしませんでした。むしろ感謝の言葉を掛けてくれていたので、精神的にとても楽でしたし、経済的にも母は周りに迷惑をかけないように備えてくれていました。

今となって思うことは、あれ?私はお母さんに何をしてあげられたのだろう?看取りって本当はどうしたら良かったんだろう?そんな思いだったんです。

母は認知症でしたので、自分の最期をどうしたいか?なんてことを話し合うこともできませんでした。亡くなってしまったら「お母さん、ご自身の看取りについてどうだったと思う?」と訊ねることはもちろんできません。残された者が想像するしかありません。

その人に代わって最期を決める立場になったとき、どうしたら良いか悩んだとき、元気だった頃の言葉を手がかりにするしかないのです。やってみて思うことはたくさんありますが、実子ではない嫁とは一体なんだ?っていうこと。 実の子供よりも重い責任を担う存在ってこと?そんな大切なことを嫁がして良いのか?ということでした。夫婦間での話し合いはしておりましたが、どうしたら良いかなんてイメージが湧かないし、よく分かりませんでした。

子供たちみんなで話し合い、みんなで支え、みんなで考え、みんなで納得することが大切なのではないかと思います。最期のイメージがちゃんと統一した理解として持てているか、誰もが親の介護と看取りの経験をすることが、最も大切なことだと思います。結果だけを見てあれこれ言うのでは遅いのです。

仕事の繁忙期と母の介護が重なり、あっという間で濃い5年4ヶ月でした。

入院したとき、食欲はあるのだけど介助をしないと食事ができなかったお母さん。毎日出向いて介助をし、嬉しそうにご飯を食べてくれていた母の姿を思い出すと、あのときお手伝いができて良かったと心底思います。

食べられなくなるときは、必ず訪れるのですから。

なかむらひろこ

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